気仙沼行き -4- 自分の目で見なければわからないこと


インターネットに情報はいっぱいあふれているけれど
自分の目で見ることとは経験値としての濃さ/実感/密度が全く異なる。

マスメディアは何かが起こらないと伝えないが、現地では復興の日々が延々と続く。
もっと早く行けば良かった。
被災地の方たちが復興の日々を過ごしていることを、忘れずいつも胸にきざんでおく。

自分の目で見ることと、テレビの画面で見ることとは情報量に格段の差がある。
自分で見たものは「固有名詞」となり自分にとって「特別な存在」になる。
そして次にその情報に接した時、それは全く違う現実感や切実感をもって
迫ってくるのだ。人ごととしてではなく。

自分の目で見る前と後では、気仙沼について何を聞いても読んでも
リアリティが変わる。それは劇的な変化だ。
○○のおかみさん、△△のご住職といった固有名詞が出来ると
点と点がつながって線になる。

9.11の映像をみて、その衝撃と被害の大きさを理解しながらも
どこか遠い他国で起こった出来事、としか捉えられないのが一般的な反応だ。
テレビの向こうの出来事だからだ。
しかしWTCビルで働いたことのある人、行ったことのある人には
自分に起こりえたかもしれない出来事、と発想されるだろう。
テレビのニュースで見ることと、実際に自分の目で見ることとの間には
大きな情報量の差がある。
それを感じるからこそ、被災地の多くの方が
「遊びに来るだけで良いから、来てほしい」と言われるのだろう。


来て、見て、周囲の人に伝える。
それだけで良い、と言ってくれたご住職、女性たち、学生ボランティアの皆さん。

自分の目で見なければわからないことがある。
一口に気仙沼と言っても津波の襲ったところとそうでないところでは
被害の様相が全く違う。

がれきはほとんどが撤去されていたが
家や建物の土台だけが残ったあとの風景が胸に痛い。
玄関の跡、お風呂場だったところ。
まぎれもなくここで多くの人が生活していたのだ。
それが自分のことだったらどうする。

被災直後のがれきの山とは違う、復興が遅々として進まない様子が見てとれる。
遅い、ということは往々にして致命傷になる。
たくさんの懸案事項と条件、公平性の確保といったことが勘案されて
結論が出ないのだろうけれど
その間にも人は生活していかなくてはならない。

地盤沈下したところのかさ上げ、漁業の再興、防波堤の建設など。
どれもが複雑で大変なのはわかるけれど、
ビジネスにおいてもとにかく早くスピード感をもってやらないと
効果を失うのが常なのだ。

行って良かった。
長時間のバス旅行で参加まですごく逡巡したけれど
思い切って行って、本当に良かった

旅行の計画を立てるなら、被災地に行ってみてほしい。
それは気分転換や休養、家族サービスといった旅行とは違う
経験知をもたらし、強い感情を呼び起こしてくれる。