記憶の改ざん ―宮島、そしてロリータ―


先日、広島出張時、駆け足で宮島に行って来た。
予定していたアポイントが急きょ中止になり、
ぽっかり空いた半日で往復したのだ。

宮島には10年近く前に行っている。
海がとてもきれいで透き通っていて、
ふぐや魚が泳いでいるのが間近に見えたこと、
鹿がおっとり歩いていたのが印象的だった。

今回行って驚いたのは、
思ったより陸から距離があること、
上陸してから厳島神社までも、記憶よりずっと遠いことだった。
写真やポスターの印象によって書き換えられたらしい。

いつの間にか、宮島は陸から歩いて渡れるくらいの距離で
有名な赤い鳥居もすぐ見えるところにあると、
記憶が変わっていたのだ。


ビジネス書や実用書を読むのに疲れ果て
美しく、緻密で、完成された世界の読物が無性に読みたくなった。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

ナボコフの「ロリータ」を読み返す。
20年くらい前と10年くらい前に読んだと思う。
(幻想の少女に恋した男の哀れな恋愛小説であり、推理小説であり、
読者をだますトリック満載で腹立たしくもあり、数多くの伏線が敷きつめられ、
そしてやはり、切ない愛の小説である)

読み返すと、やはり記憶と違う事がたくさんあるのだ。
小説のラストで少年少女が歓声をあげて遊んでいる姿を
ロリータ(ドロレス)と重ねあわせる、というシーンが
ロリータが自転車に乗って山を下っていくのを思い浮かべて
泣く、という情景に違って覚えていた。

小説はこういうことはよくある。

それにしても、記憶って修正されやすいものだ。
自分の中で確固たる思いで覚えているつもりでも
脳内で編集されたり変換されたりして、違うものに変わっていくらしい。

今覚えている、「自分」と「自分の記憶」というものは
結構不確かなものかもしれない。

自分というのも、案外一貫性のないものだと知る。
今の自分が過去の自分と、まったく同一の人間だ、
という保証はどこにもない