2011.3.11 あれから1年たって変わったこと


●震災の日、会社にいた幸運

東日本大震災の起こった日、私は中央区にある会社にいました。
午前中外出していて、昼ごろ帰社し
午前中のアポイントの相手にお礼のメールを書こうかと
思った時でした。

まさかそんな大地震が起きるとは誰も思っていなかったのと同様、
はじめは関東ではよくある地震だと思いました。
だから古いビルなのに外にも避難しなかったし
たいして慌てもしませんでした。

会社のインターネットは動画のアクセスにフィルタがかかっています。
PCでは見られないので、
同僚の携帯電話のワンセグ放送を見ながら
報道で伝えられる被害の様子を見ているだけでした。

そして一番焦ったのは神奈川の実家の両親と
連絡が取れなかったこと。
携帯も固定電話もつながらず、大丈夫だろう思いつつも
19時過ぎに、姪を通じて互いの無事を伝えるまで
長い時間に感じました。
つながったのは会社のインターネット回線でした。
その後、夜中に地下鉄が動き出し、自宅に帰ることが出来ました。

あちこちクライアント先にでている私は
出先もしくは移動中にいる確率と、
会社または自宅にいる確率は半々です。

地下鉄の中、モノレールの中、エレベータの中、或いは出張先など、
出先だったら歩いてどこかに移動するしかありません。
会社にいたことは本当に幸運でした。

しかし、次に地震が起きたとき
どこにいるかは全くわかりません。

通勤の地下鉄の中だったらどうするか
エレベータの中だったらどうするか
最近、よく考えます。

●生活の中で変化したこと

iPad+モバイルルータを導入しました。
・両親の携帯のアドレス帳の記載に、続柄を追加しました。
・自宅には、カセットコンロや水、食品のストックを持つようにしました。
・父が箪笥を置いた部屋に布団を敷いて寝る、という生活だったので
 ベッドを買って家具の配置を変えました。

「震災から身を守る52の方法」
を読んで、
とにかく自宅で寝ているときに圧死しないようにしておく、
ということは対策しました。

●被災地支援

続々寄付が集まる中、私は寄付はしませんでした。
具体的に必要なものや支援方法が決まらない中で
どこに行って何に使われるかわからない寄付はしたくなかったのです。

その後様々な情報が伝えられる中で
・あったかストーブプロジェクトを通じて、宮城県の3件のお宅にストーブを寄贈
・セキュリテミュージックファンドを通じて2つの企業に出資
・ふんばろう東日本復興プロジェクトを通じて南三陸町にお米を送付
しました。

仮設住宅は不便な立地にあり移動手段がないという話があったので
もう少し暖かくなったら自転車を送ろうかなと思っています。

ストーブを送った石巻の被災者の方から
「ご迷惑をおかけしてもうしわけない」
というような内容のお礼状が来たので
「次に助けてもらうのはこちらかもしれません。困った時はお互い様です。」
と返信しました。

いつ自分が被災者になるか全くわかりません。
今の被害3県には、
・できることを
・必要なタイミングで
・長く
ご支援出来たらと思います。

●自分が変わったこと

この1年、地震や関連した出来事以外でも色々なことがありました。

その中で思ったことは
・いつ災害に遭ってもおかしくない、その時を想像して心構えをしておく
・家族との時間と互いの安全確保を大切に、いつも考えておく
・自分の体の声をきき、無理せず体調の維持に努める
といったことです。

なんだか当たり前のことですが、
その当たり前のことがどんなに貴重で大切なものなのか
実感させられた1年でした。

企業の体制も、物流や物に対する考えも大きな影響を受けました。
首都圏の生活は一見元に戻ったように見えますが
「自分たちが直下型地震に襲われたら」という課題認識を与えたのは
極めて大きな変化だったと思います。

間もなく、地震が起きた2時46分を迎えます。
あの時間を境に、私達の心は大きく変わったと思います。
原発や電力の問題はじめ思考停止していた状態から
地震が起きたら想像を絶するような甚大な被害を受ける土地に自分たちは住んでいる」
という事実に直面した、境目の時間です。